「クラッシックは、モーツァルトに始まって、モーツァルトに終わる。」管理人が中学1年でクラッシックに目覚めた頃に、無類の道楽者であり、度を越した音楽好きだった叔父が言っていました。
確かに。。。現在、最も好きな作曲家は?と問われたら、バッハと答えるか、モーツァルトと答えるか激しく悩みますが、この叔父の言葉は理解出来ます。
ただし。。。クラッシックを聴き始めた中学1年の頃、モーツァルトの音楽は正直よくわかリませんでした。(ただし、叔父さんが聴かせてくれたレクイエムという曲は別。レクイエムについてはまたいずれご紹介します)
モーツァルトの音楽って、当たり前のように、ごく自然に、小川を流れる水のようにさらさら、するすると流れていくんです。初心者の管理人には掴みどころがなかった。取っ掛かりが少ないんです。フックとなるポイントが少ない。よってモーツァルトの音楽のよさがなかなか理解出来なかった訳です。
だから、ビギナーの方々にモーツァルトの曲を紹介するのは意外と難しいんです。モーツァルトでありながら、フックがあり、キャッチーな曲とは?としばらく考えたのですが。。。
あります、あります、ありますとも!「フィガロの結婚」というオペラの中にある「恋とはどんなものかしら?」というアリアです。
「恋とはどんなものかしら」は、モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」の第2幕で、ケルビーノという登場人物によって歌われる曲です。ケルビーノは、まだ声変わりしていない少年の役柄なので、女性のソプラノ歌手によって歌われます。この曲には、フックがあり、キャッチー、そしてポップですらあるとも言える超絶名曲なんです。
歌詞がわからなくても構いません。とりあえず聴いてみてください。この音楽の美しさには言語を絶するものがあります。神々しいまでに輝いていると管理人は思います。しかし、その神々しさは近寄り難いものではありません。同時に極めて人間的なんですね。あまりに人間的に過ぎると言ってよいほどに。
モーツァルトは一般的に天才の代名詞のように語られる人です。管理人も、この人は度を越した天才、天才の中の天才であると思います。しかし、この天才がオペラで描いたのは、私たちのようなごくごく普通の人びとのすったもんだであり、それらの登場人物の悲喜こもごもでした。
人間の感情は、一般に「喜怒哀楽」と言われますが、実際の私たちの感情は「喜怒哀楽」という括りで表すことは不可能だと管理人は思います。モーツァルトがその音楽で表した最も重要な要素のひとつは、「喜怒哀楽」という括りでは、到底表現出来ない、細やかで淡く移ろいやすい、繊細な感情表現だったのでは?と管理人は考えています。
さて皆さん、恋とはどんなものなのでしょうか?管理人は、残念ながら、恋は苦手科目で偉そうなことは何も言えませんが。。。恋とは、苦しみと喜び、不安と恍惚がコインの裏表となっているものではないでしょうか?
恋というものをまだ完全には知らないけれど、部分的には身に覚えのあるケルビーノという登場人物の、恋に対する憧れ、苦しみと喜び、不安と恍惚が、その微妙で繊細な感情の彩が、神々しいメロディーとオーケストラの伴奏で表現されています。
それと同時に、何と言うのだろう?この音楽には稀に見る素直さと素朴さがあります。まるで幼稚園のお遊戯の発表で、子どもが口をいっぱいに広げて歌っているかのような。この曲だけでなく、素直さと素朴さは、モーツァルトの音楽のひとつの特徴であると思います。こんなことを言ってる人は少ないかもしれませんが、この要素が管理人にとってのモーツァルトの音楽のかけげえのなさのひとつとなっています。
モーツァルトのオペラでは、あまり英雄的な人物は登場しません。むしろ愚かなあり様の人たちが多い。この「フィガロの結婚」というオペラも、ごくごく普通の愚かなあり様を含む人たちのすったもんだのお話しです。賢人とはとても言えない人たちのすったもんだのやりとりの中に神々しさが宿るという不思議。
その神々しさの正体は何かと言うと、一言で言えば、「愛」ということになると管理人は思っています。
モーツァルトの音楽の特徴は愛です。モーツァルトは愛の音楽家です。しかも史上最高の。愛を表現してモーツァルトの右に出る音楽家は、少なくともクラッシックの分野では居ませんでした。
「恋とはどんなものかしら」は、そんなモーツァルトの音楽に入門すための最強の曲のひとつだと思います。